特集 国語単元学習と人間形成(月刊国語教育研究2026年4月号No.648〔日本国語教育学会〕)
弱いまま生きるためのことば
関西大学・京都大学 桝井英人
1 弱い主体
二〇年も前のこと、高木まさき氏の本にこんな問いかけを見つけました[1]。今は主体形成を強制される時代だ。その中で、主体的であることを至上の価値として教育の場に受け入れることは果たしてよいことか。
当時、高校の現場でさまざまに思い迷っていた私は、共感し、国語教育の歴史的検討をふまえ、こう書きました。
「…高木のいうように、われわれが、グローバル化の抑圧のなかで自己=主体形成を強いられているとしたら、そこにまず必要なのは、抑圧から形成される〈強い主体〉ではなく、むしろ、そのゲームの非選択、いわば「非参加」の意識の保障による〈弱い主体〉ではないだろうか。」[2]
弱い主体。今、これが主体をめぐる議論のテーマになると思います。無色透明の個人が教育によって主体性を獲得し、合理的な個人として社会で活躍するのがゴール。そんな主体発達観はどこかそらぞらしい。二〇年前の直観は、今、多様性の問題としてくっきり姿を現しています。不登校、経済的文化的貧困、性的少数者、日本語を母語としない子ども、心身のハンディキャップ、学習や行動の困難、特異な才能。どんな子どもも多様な弱さを抱え、支えられながら育っている――思えば当たり前のことです。
そして、子どもたちの多様な困難はそのまま「成人」の多様な困難につながっています。さらに私たちの社会は、長い老後を可能にしました。私たちは、弱く支えられる主体のまま、生を継続します。そのどの場面でも、ことばが生を支える重要な鍵であることに変わりはありません。
弱い私のまま少しでもよりよく生きるためのことばの学びをどのように担えばよいのか。それが問いです。
今も「主体」はキーワードです。次期学習指導要領の議論では「自らの人生を舵取りすることができる力」「民主的で持続可能な社会の創り手」いったことばが考え方の基礎になっています。これは一見強い主体のイメージですが、その裏には、舵取りできない個人の姿や持続できないかもしれない社会への危機感を感じ取ることができます。
2 弱いまま学ぶ場
主体や論理という語は、社会の要求を吸収し、都合よく使われてきました。グローバル化が唱えられたころは、「普遍的」論理を駆使し、グローバルな舞台で勝ち抜いていく強い主体がイメージされ[2]、現場にも下りてきました。経済再生の夢が教育に期待されていたわけです。それが今は、人生を舵取りできる主体が課題になっている。弱くていい。参加しない自由もある。それを認めないと、教育は成り立たない。かつてそう書いたのは、現場はすでにそれが必要な状態だったからです。実態は観念に先立つ。
国語教育には、①〈わたし〉をことばで表現すること、②ことばの伝わる場の形成という課題がありました。これはそれまで〈強く統一された主体〉観にもとづいて、①内省と表現による自己変容、②論理的思考力によるコミュニケーション、として構想されていましたが、「強い統一への強迫が、われわれに〈にせの主体〉を形成させ、ことばが根拠を失うとしたら、構想はいったん変更されてもよい」[2]と私は考えました。これは当時、自分の教室をどうしていくか、についての考えだったのです。
授業での具体的な戦略も考えました。それは①間接的な「自己」表現、②論理観の転換による場の形成、という戦略です。①は、私の思いをむりにいわない、ということです。心にもないことをいわない。考えをいえと迫るのは暴力です。それは、ほんとうのことばを押し殺す。間接的に何かについてことばにしていく中で、ふと自分のほんとうにふれる。何かが流れる。私は、そういう回り道の有効性を例えば自分の国語表現の実践から学びました。②の転換とは、「論理」を「ことばの通じている場において現に機能しているもの」と捉え直すことです。現に通じていると感じる言語感覚をまず認める。論理が文化によって異なる、という認識は、現在ようやく広がりましたが、以前は「普遍的」論理だけを論理と考え、その型を教えれば論理(通じる場)が実現すると考えられていました。
もう一つ、弱い主体の安心のために「一見無駄な、ノイズともいうべき情報」[2]の有効性に気づきました。
私たちは、複数の点が面をなすように場をつくります。おしゃべりがあって、少しずつ場ができ、その場で機能することばの論理(つながり)が流れ出す。それが授業の準備、前提です。特に考えもない、受け身のからだが集まっている。場は弱い主体を支え合い、だれのものとも判然としないことばを、ゆるりと吹き出しの余白の中に置く。私自身、余白の感触から場をつくり、授業につなぐ戦略をとってきました。多くの先生がそうしてきたのではないでしょうか。そこへ行き着くのではないか。例えば大村はまもそうです。
3 ケアする単元学習
「…発言しない子どもというのがいるのですが、それは、別に悪いわけではないのです。…生徒のなかに身をおくことが教える技術の一つだと思うのです。子どもの中に入って、子どものことばで、話すわけです。そういうことばがどんなに子どもの心を柔らかにし、開いてくるか…。…楽な気持ちの中でこそ、その人らしい考えというのが出てくるのではないか」[3]
大村はまのこの発想やふるまいはケアと呼べると思います。単元学習と人間形成というテーマを考えるとき、この発想に目が向きます。これは、子どもの現実から出発するという単元学習の本質から導かれる原理だからです。
補助線を引きます。カウンセラーの東畑開人氏のことばです。「カウンセリングとは、近代の根源的なさみしさの中で、人が可能な限り、正直に、率直に、ほんとうの話をすることを試み続ける場所である。」(傍点原文)[4]
その場所は国語教室と重なります。ケアされながら、ほんとうのことばが生きる力を醸成する場所の一つ。その中で「人間」は成熟していくのでしょうが、その先にある人間像は問い直されるべきでしょう。
「人間形成」ということばには、「人格の完成」に似た近代的な個人観が響きます。人生のどこかで「人間」が完成する。教育は完成品としての「人間」を形成する。しかし、そんなことは幻想でしょう。成熟もするだろうが、堕落もする。私たちは刻々と変化する〈現象〉にすぎません。私たちは弱く、不揃いなまま、完成などせず、やがて老い、人間という形での現象を終える。
東畑氏は個人として生きるという近代のプロジェクトには困難があるといいます。個人はさみしさに耐えられず、自由を放棄して、大きな物語に身を委ねてしまう。「…だとするならば、個人的な物語を生きることを可能にしようとするカウンセリングには、大きすぎる物語の暴力に抗するための社会的使命があるはずです。」[4]
人間の危うさ、弱さを支えるのが、よりよい物語を導き、生を整え深めるためのことばです。ことばは放置すると、妄想を生み、暴力を生む。妄想の論理が増殖する。個人は弱く、進んで暴走する物語に命を預けてしまう。
大村はまは、お互いが思うことを素直に話せることばの力があったら、戦争なんかしなくてすんだ、戦後、先生たちはそう思って、本気で話しことばの教育を志した、と語っていました。可能な限り正直に率直にほんとうの話をする、ということです。それは、個人と同時に社会を支える。
カウンセリングと国語教室とは次元が違う。しかし、どうしたらいいかわからなくなったときに、その現実に負けないために、また、物語の暴力に抵抗するために、ことばを交わし、研ぐ。この点で両者が目指すところは重なっています。ことばによってよりよく生きることを支える場、ケアする場が、学校、国語教室―単元学習の場であるべきです。安心してことばを出せる場をつくり続ける。それに完成―終わりはない。それが私たちの課題だと思います。
4 先生のエートス
医療関係者たちが対話し、ケアの本質をことばにしています[5]。「いいケアとは、その人の自覚的・無自覚的な願いを想像したかかわりである」。これを国語教室でやっていたのが、引用した大村はまの例です。カウンセラーの東畑氏もケアとはニーズを満たすことといっています。ケアの現場の実感なのでしょう。ただニーズがわかることは本人にとっても難しい[6]。教室にも似た課題はあります。子どもたちは学びのニーズをはっきりとつかんでいるわけではない。先生が始めない限り教室は立ち上がらない。先生はニーズを喚起する役割を担っているわけです。
さて、医療関係者たちは、「いいケアには、対等性、対話的なかかわり、ケアする人の結果的な貢献感が必要だ」と付け加えています。「貢献感」とは何でしょう。東畑氏はそれを「役に立てているという自己肯定感」と表現しています。そして、「ケアすることで元気が出る」「ケアすることはケアされること」といっています[6]。
教師の場合はどうでしょう。子どもから出発するのが単元学習といわれますが、正確には、先生の願いと子どもの願いの接点から構想するのが、単元学習的発想なのだと思います。先生自身も願いを持ち、ケアされるべき存在だということに焦点を当てておきたい。先生もまた弱い〈私〉です。先生もまた自分自身の願いに働きかけなければならない。先生こそ、子どもという仲間とことばをつうじて相互に支え合い、高め合う場をつくりだせる存在なのです。
こういえば、そんな教室はたくさんあった、という思いが湧きます。先行世代としての問題意識を発火点とし、場をつくりだし、続く世代と共によりよく変容していこうとする態度。この先生のエートスこそ、単元学習的な場の核です。仲間がいれば問える。ことばを通じてなんとか生を切り開いていこうとする同志が集う教室がそこに現れる。
一九五三年の名高い実践――高校教師荒木繁による「民族教育としての古典教育」という報告にふれます[7]。生徒に万葉の歌に対して問いを迫った実践です。西尾実が「問題意識喚起の文学教育」を着想したきっかけとしてよく知られています。ここには、今いった先生のエートスがありありと感じられます。荒木にもケアという契機(モメント)があります。黙っている生徒には、作文を書かせ、共有する。それがかえって場を触発し、意見が出やすくなった。また、自分の生活と結びつけるように仕向けた。工夫の結果、受動が能動に転じる瞬間が訪れ、自発的討論が発生したのです。ケアし、働きかけ、問題意識に着火する。その上で、荒木先生は、自分自身の願いをこう口にするのです。
「私は万葉を通じて生徒の感じ方考え方をつかまえようと努めました。あるいは、万葉をなかだちにして生徒と話しあおうとしたといった方がよいかもしれません。」[7]
教材を媒介として、同時代人としての問題を自覚し共有する。そこには先生自身の問題意識という触媒が必要なのです。話し合うことは広義のケアです。ケアすることはケアされること。教えるは教わる。その中で主体は相互に支えられ、安心してほんとうのことばを出せる。そうしてやっと、ことばを磨くという国語の目的に届くのです。
「教材をなかだちにして生徒と話しあいたい」。
この願いを私たちがはっきり自覚することがすべての出発点ではないでしょうか。
5 私たちの立つ場所
大阪府立今宮高校に「私達が立っている場所(略称「私達」)」という学校設定科目があります(担当小山秀樹氏)。二〇二四年度、開講二五年を迎えました。高三の選択科目で、丸山眞男などの教材と格闘する中で、学び手自身のことばが進化することを目指します。山場はグループ発表ですが、準備にはかなりの時間と労力を要します。次は卒業生のことばです[8]。「『グループで一心に読み解き、自分では思い至らない意見を知り、議論して理解を共有し、伝えたいことを伝えられるよう資料を纏めて発表する』/〈私達〉の授業で学んだノウハウは、今でも大学の演習や発表において通底していると思います。グループでテーマについて深く考えて真剣に取り組む姿勢は、社会の人間関係においても意識できることだとわかってきました。今回の機会に顧みて、〈私達〉の授業が今の自分への自己拡張にこうも広く影響しているのかと我ながら驚きました。」
類似の証言は数多くあります。なぜ、生徒のその後に深く影響する授業ができたのか。この授業を特徴づける要素を分析したことがありますが、ここにも、指導者の問題意識と生徒の実態の接点に授業構想の基点を置くという核があるのです[9]。小山氏はこの授業の目的を、みんなでことばを練り上げる中でお互いのことばに自分への気づきを得、そこから次の自分をつくることばを獲得すると表現し、生徒にも繰り返し伝えています。それは、生徒の無自覚な願いを浮かび上がらせようとする一種のケアです。
小山氏は、自分には「獲得したことばを蓄積してよりよく生きてほしいという願い」があるといいます。小山氏自身、十代の頃、どう生きていけばいいのか、悩み、ある国語の授業に出会い、「人とともに持つことばの凄み」に希望が開く経験をした。このとき、深く播き落とされた種がこの授業の原型なのだと思われます。
別の卒業生は、相手と授業の活動の中でつながった瞬間を記述しています。「分からない表現について共に頭を悩ませ、ああだこうだと言い合う中で、なにか解釈がはまった感じがしました。『ああ、こういう意味だろうか』という『はまる感じ』を彼女と共有した、と私は思っています。」テキストを媒介とし、自分たちのことばがはまる感じを模索する。これをほんとうのことばと呼んでいいと思います。自分たちをメタレベルで捉える回路が一つつながった。私も実践者として、そんな場面に何度も立ち会ってきました。
弱い者が弱いまま、支え合い、自分や現実を捉え、負けないで、最後まで生きていくことを可能にする、そういう意味での「ほんとうの」ことばを育む。格闘はずっと続いてきたし、今も続き、個人と社会を支えています。
一方もし、にせのことばを自分のことばだと錯覚する経験を繰り返したとしたら、取り返しのつかないにせものの私が形成される。現実に、私たちは社会的につくられてしまった自分を自分だと思っている部分がある。ジェンダーの視点から、これをことばの問題として考察した研究もあります。永田麻詠氏は、自分が「つくられている」ことを実感できる国語の授業を提案しています[10]。その問題意識はここで書いてきたこととつながっています。
考えを的確に表現できる強い主体は幻想です。ああだこうだといいあえる余白のある教室で、その安心の中でやっとほんとうに近づくことばをつぶやく。私も長い経験の中でそう気づき、高校や大学で実践してきました[11]。
小山氏はこういっています。「よりよいことばの獲得を願う限り授業の目標は、単純で力づよければ学習者がよりよいものとしてそれを受けとめてくれる。」単純でよい。受動が能動に変わる瞬間が必ずある。このメッセージをまっすぐに受け止めようと思います。
[1]高木まさき(二〇〇一)『「他者」を発見する国語の授業』大修館書店
[2]桝井英人(二〇〇三)『「国語力」観の変遷』溪水社
[3]大村はま(一九八二)『大村はま国語教室第一巻』筑摩書房
[4]東畑開人(二〇二五)『カウンセリングとは何か』講談社
[5]苫野一徳他(二〇二五)『本質観取の教科書』集英社
[6]東畑開人(二〇二四)『雨の日の心理学』KADOKAWA
[7]荒木繁(一九五四)「民族教育としての古典教育―「万葉集」を中心として―」『続日本文学の伝統と創造』岩波書店
[8]小山秀樹(二〇二四)『「私達」は現在、こんなふうに考え、生きていますスペシャル―「受講生の声」編―』※大阪府立今宮高等学校HPで公開。
[9]桝井英人(二〇二四)「国語教室の本質――「私達が立っている場所」を参考に」(関西大学『教職支援センター年報2024』)
[10]永田麻詠(二〇二二)『性の多様性と国語科教育』明治図書
[11]桝井英人(二〇二二)「根源的な自発性を自発的に涵養する―国語科教育法という場」(関西大学『教職支援センター年報2022』)
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